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四季 夏 Red Summer

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「いえ、私はとても良い経験ができて、むしろ喜んでいるの。なるほど、忘れるというのは、こういうことなのかって、初めてわかりました」四季は可笑しそうに言う。「なかなか不思議な感覚ですね。くすぐったい、に似ているかな」 「忘れることが、ですか?」 「いえ、思い出すことが」

プロジェクトの遂行には、なるべく若い人材を使った方が得策だ。その方が心理が読みやすい。人は年齢を重ねるほど、理屈から離れ、複雑に捩れる。

論文を書くことは、彼女には、後ろ向きの作業だと思えたからだ。それはアメリカの大学でドクタ論文を書いたときに感じたことだ。研究を進めているときには前を向いているが、論文を書くときは後ろ向きになる。大多数の研究者は、そういった後ろ向きの視点を必要としている。確認作業や、人に説明する客観的な評価があって初めて気がつくこと、あるいは新たな糸口の発見があるからだ。しかし、四季にはそういったことはなかった。彼女にとっては、論文の執筆など、無駄な時間以外のなにものでもない。身近にいる、事情に精通している人間に説明することさえ億劫だった。まして、不特定多数を対象に、研究の成果を説明することなど問題外、必要なエネルギィの大きさに対して、得られるものは極めて小さい。